この木何の木、気になる気
2004年8月20日昨日の日記最後に書いた「価値・判断基準のゆらぎ」。
実は続きがあって、「・・逆に自国にいるなら自信を持って対処できる場面なのに、外国にいるというだけで自分の判断基準に迷いがあったり自信がなかったりしてどうしていいのか分からなくなってしまったり、居心地が悪くなったりすることもあるようです。」
となる。
自分が臆病者だとは思わないけれども、
自己分析すると、自分は末っ子で兄弟の経験を見て育っていたわけで、未経験のことは、まず「真似」をすることから入り、徐々に自分風にしていっている。
この国に来て、結婚式にせよ、仕事にせよ「真似」をする対象がなかったからなんとなく自信が持てなくて臆病だった。
あいるでの結婚式のしきたりとかも、
教習所以来うん十年ぶりのマニュアル車の運転も、
仕事上の英語での電話の応対も、
ずっと自信が持てなかったことが、何かの拍子に出来るようになる。
たぶん、ちゃんとできたことなんだけど、異国にいることで最初から「真似」する対象がない=できない という自己暗示をかけていたのかなと思う。
しなくてはならない環境というのが一番手伝っているが、
結局はやればできる、ということですね。
実は続きがあって、「・・逆に自国にいるなら自信を持って対処できる場面なのに、外国にいるというだけで自分の判断基準に迷いがあったり自信がなかったりしてどうしていいのか分からなくなってしまったり、居心地が悪くなったりすることもあるようです。」
となる。
自分が臆病者だとは思わないけれども、
自己分析すると、自分は末っ子で兄弟の経験を見て育っていたわけで、未経験のことは、まず「真似」をすることから入り、徐々に自分風にしていっている。
この国に来て、結婚式にせよ、仕事にせよ「真似」をする対象がなかったからなんとなく自信が持てなくて臆病だった。
あいるでの結婚式のしきたりとかも、
教習所以来うん十年ぶりのマニュアル車の運転も、
仕事上の英語での電話の応対も、
ずっと自信が持てなかったことが、何かの拍子に出来るようになる。
たぶん、ちゃんとできたことなんだけど、異国にいることで最初から「真似」する対象がない=できない という自己暗示をかけていたのかなと思う。
しなくてはならない環境というのが一番手伝っているが、
結局はやればできる、ということですね。
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